《笑い祭り》12月3日は山口県防府市「笑い講」に行こう

日本には、笑うことを神事や祭りの主に据えた「笑い祭り」が数多くあります。 そんな「笑い祭り」を一つ一つ掘り下げて紹介するシリーズ《笑い祭り》。第三回目は山口県防府市の「笑い講」です。少し詳しく解説するので、この知識を持っていけば現地で楽しめること間違いなし。

神事・祭りデータ

場  所:山口県防府市台道小俣地区
アクセス:JR山陽本線防府駅から列車で5分、台道駅下車
開催時期:毎年12月最初の日曜日 2017年は12月3日(日)11時頃~(13時頃に笑い神事)
地  図:下記参照

※具体的な開催地は毎年変動しますので防府市観光協会(0835-25-2148)にお問い合わせください。または、タクシーの運転手に尋ねて現地まで連れていってもらってください。

「笑い講」はこんな祭り

笑い講 は、12月の第一日曜日に山口県防府市台道小俣地区の代々世襲の21戸の講員が、その年の当番である「頭屋」の家に集まり小俣八幡宮摂社から年神を迎えて行う大歳祭りのなかの行事のひとつです。年神とは新年に来訪する神であり、なおかつ穀物の神であるので、笑い講はおもにその年の収穫を感謝すると同時に翌年の豊作を祈る行事です。かつては、笑い神事以外にも「おためし」「なんじょうの舞」などの祭儀が行われていましたが、現在はこれら他の大歳祭りの祭儀が催行されなくなったために、「笑い講」という呼称が一般的になりました。
笑い神事の次第を簡単に紹介しましょう。まず、21名の講員が車座になって座ります。飲食(直会:なおらい)の後に、13時頃、小俣八幡宮の宮司によって笑いの神事の開催が宣言されます。宮司が祝詞を唱えたのち、太鼓をたたき始めたら、講員たちによって神事は開始されます。まず下座と上座に対座した講員が2人、榊を手に持ち「アーッハッハハ」と大声で3回笑います。笑い終えたら各々の左隣に榊を渡して2人ずつ順に笑っていき、車座を一巡したら、今度は4人の給仕が座の中央に出てきて笑います。最後に講員・給仕の全員で笑っておしまいです。防府市の資料(2010)では、3回の笑いにはそれぞれ、「今年の五穀豊穣を感謝」「来年の豊作を祈願」「今年の苦労を忘れる」 という意味合いがあるといいます。

小俣八幡宮とは

現在の山口市にある鰐鳴八幡宮(別名、小鯖八幡宮)で氏子同士が祭りのやり方と役割分担について揉め事が起こったことから、正治元年(1199年)に現在の小俣へ神符を持ち帰り、社壇を建立して八幡大菩薩を勧請して祀ったのが小俣八幡宮です。この経緯は小俣の村人三好源次によって社碑に遺されました。

「周防の国、吉敷郡小俣村(庄)小俣八幡宮は、正治元年(一一九九)已未(つちのと、ひつじ)の年にはじめて建てられた。昔は周防小鯖村小鯖八幡宮(鰐鳴八幡宮)を近くの村々の総社として尊崇し、共にお祀りをしていた。何かの事、お祭りの手伝いにいって奉公をして、そして小俣二十一戸が神符をいただくのが例であった。或る年の祭日の時、訳があって争いがあり、小鯖の人との喧嘩がはじまり、大道の土人、貞頼氏が神符をとってかえり、それを神体としてお祀りをしていた。今のお宮がそれである。小俣八幡宮は、小鯖八幡宮の末社である。それから後、大内氏の家臣(結縁衆)胡左近将監頼幸という人(願主)が神符を造りなおして、その事情を神符の背面に刻んだ。(黒塗)それが応永三二年(一四三五)乙已(きのと、つちのと)の年である。」
宮原尚美, 1999, 『小俣八幡宮八百年 笑い講』.

小俣八幡宮は応神天皇、比売大神、仲哀天皇、神宮皇后を祭神としており、一般的な八幡宮の形態をとります。宮司は高橋家が代々受け継いでおり、現代にいたるまで17代の世代交代をしてきました。小俣八幡宮の社伝には、笑い講は鎌倉時代の正治元年(1199年)に始まったと伝えられています。笑い講は小俣八幡宮が創立されてすぐに開始されたことになります。小俣八幡宮の宮司、高橋二臣氏によれば、小俣八幡宮の勧請を祝って笑ったのが笑い講の始まりだったといいます。そもそも笑い講は大歳祭りというより、勧請祝いだったのです。

講員と名(みょう)

講員は全員、小俣八幡宮の氏子です。笑い講の講員は名(みょう)を持つています。『山口名勝旧蹟図誌』(1894年成立)では、「名とは、古代から中世にかけ、荘園の内部を構成する基本的な単位で、徴税単位でもあった。荘園領主や国衛は、名を単位として支配をし、名に徴税の責任者や、開発領主的な名団の所有者の名前がつけられた」とあります。講員はかつて、この地の名主で土地を多く所有する有力者たちだったのです。『防長風土注進案』に笑い講の名について記されています。同書では、引詞、弥贈、末永、田中、梅松、久保産田、弥五郎、松富、末次、護郎丸、百文、貞頼、徳重、与太郎(與太郎)、雑寒、徳滋、徳永、珠權南(二名)、場大夫、日刻の名があることが記されています。なお、名は複数の家で持たれたることもありました(下表)。


笑い講 名の所有者

『防長風土注進案』をもとに作成

これらの二十一名を俗に「大歳祭りの二十一名」といい、これ以上増えることも減ることもありません。このうちの貞頼・護郎丸・末永・徳滋の名は、隔年、一人ずつ祭礼の夜の流鏑馬の式に奉仕したという記録があります。
この名の制度は、現在では少々事情が変わってきています。現在、基本的に一名は一戸で引き継いでおり、株の引き継ぎは基本的に親族のみとなっています。その影響で、継承者が途絶えた一戸は現在笑い講には参加していません。また、二戸は「人前で笑うことを避けたい」という理由から、参加する権利は持つものの参加をしていない状況であり、2008年現在では18戸による神事となっています。
講員以外にも、笑い講には小俣神宮の宮司、料理の調理役、および給仕人が必要です。この給仕人は、講員と同様、旧来より女人禁制であり、全員、頭屋の近親者が務めます。給仕人は座布団敷き、膳の出し入れ、料理のおかわりの世話、酒の酌や接待をします。

「笑い講」の流れ

明治時代の記録によると、笑い講は(1)神迎え(2)直会(3)おためし(4)笑い神事(笑い講)(5)お取り穂・尻からげ(6)頭渡し(7)神あげと進行するものでした。現在では、祭儀が簡略化され、(1)神迎え(2)直会(4)笑い神事(笑い講)(6)頭渡しだけ行われています。以下、明治時代の様子も加味しながら、大歳祭りの全像を概観します。

(1)神迎え

神迎えは神主が頭屋の家に来て、頭屋とともに小俣八幡宮へ行き神迎えの儀式を行ったのち、頭屋へ戻り神幣を奉納するという流れで行われます。『防長風土注進案』や『山口名勝旧蹟図誌』では神迎えの儀式の記述が見受けられます。

十一月晦の日、神主、頭屋の家に至り、斎竹を立つ。それより頭屋の主人を具して、社頭に参向し、神酒神饌を奉り、頭屋の家に神を迎へ奉るの式を執行し、さて神主神檀の幣を奉じて、頭屋に至り、棚に奉安す。

『山口名勝旧蹟図誌』

旧来、笑い講は旧暦の11月晦日から12月1日にする神事でしたが、現在は12月の第1日曜日の1日のみと祭儀自体が簡略化されています。この神迎えもその影響を受けていて、現在では、祭祀の当日の朝、小俣八幡宮の宮司が一度幣を持参し、頭屋の大歳棚に飾り付けるということになっています。その後、宮司は一度宮に帰り、祭儀の時間になり次第、再度頭屋の家に来ます。また、現在は、神霊は小俣八幡宮の大歳社ではなく、頭屋から頭屋へ受け渡していく形を採るようになりました。

大歳棚への飾りつけ

頭屋宅では神迎えの前後で入り口に近い鴨居の上に大歳棚を奉安します。大歳棚の飾りつけは、『山口名勝旧蹟図誌』の書かれた当時も今も正面に神幣、幣、榊、稲穂二把、掛魚二尾及び作り初穂で飾り、洗い水、神酒、醴を神饌としている点は変わりがありません。



大歳棚

(上:近影、下:全体。2008年、著者撮影)

また、大歳棚の正面に、神幣または麻をつけた幣を立て、垂手をつけた榊を棚の四方にたてておきます。これは本祭の開始直前に供えられ、後に行われる笑い神事の際に用います。

(2)直会

ここから本祭が始まります。まず、宮司と講員が紋付き袴を着用して頭屋の家にやっきます。給仕も同様に正装しています。現在では、講員は米一合と3000円を受付に渡すことになっています。これは、直会に提供される料理代などの頭屋の負担を軽くするためです。講員は宮座という旧来から名に割り当てられている席に座ります。



宮座図

上:『山口名勝旧蹟図誌』、下: 防府市観光協会2008

図からもわかるように、宮座における名の位置は変動します。また、名のやりとりなどを通じて、何度も講員の入れ替えがあったことから、現在は古名と一致せず、誰がどの名であるかは必ずしも把握されていません。笑い講はもともと女人禁制でしたが祭儀の保存のためにやむを得ない場合には女性の出席が認められるようになりました。ただし、給仕の4人は男性のみであり、女性は料理の調理役として活躍します。
一般に、大歳祭りは「飲み食い祭り」「腹祭り」とも言われるように、直会の席は派手なご馳走が出されるのが特色です。笑い講の直会も例外ではありません。

現在こそ規模は縮小しましたが、防府市観光協会の資料(2008)によると、戦前は早朝か夕刻にわたって三品から五品の料理が数回供応されたそうです。献立は時代によって異なりますが、『防長風土注進案』の書かれた天保13年においては、順に、大根の酢あえ・蕉汁・酒一献・小豆塗りの餅、酒三献・茶・豆腐汁・酒三献・神酒頂戴・神供頂戴・洗米頂戴・鮒汁・酒三献・押さえに二つの親椀を伏せて出すという記録が残っています。江戸末期には、鮒汁、平皿(大根・豆腐・午房・上置鮴)、飯、引手(午房・人参・蒟蒻)引物(せいご串差)、酒、飯、茶、菓子(蜜柑・菱焦飯)が出されました。年によっては、メバル、小芋などのメニューがだされる事もありました。 笑い講の代表を務める内田弘氏によれば、食事の内容を競い合って頭屋に負担がかかることを防ぐために、近年になって毎年3500円の仕出しを注文するという決まりを設けたそうです。現在では、仕出しのお膳を注文することが常となっており、厨房では「いとこ煮」と「吸い物」のみ厨房で調理されます。


仕出し(2008年、著者撮影)

また、直会の途中で講員が中座すると、給仕人はその講員の食器に山盛りになるように補充する仕来りがあるうえに、直会で出されたものはすべて食べる規則があったので講員はみな満腹になったそうです。ちなみに、使用する箸はつねに同一の物を使用しなければならない規則もあり、万一、膳に置き忘れると給仕人によって下げられ、手づかみで食べるか家に箸を取り寄せる必要がありました。そのため、各自で半紙に包んで腰に差したり鴨居においたりするなどしていました。

なんじょう

現在は行われていませんが、かつては直会の最中に「なんじょう」(なんじょうの舞)をしていました。なんじょうとは杵のことで、杵を持った舞をしていたのです。
『防長風土注進案』には、「杵をふりてでる給仕人 客しらぬ貌して座す 又、ナンジャウ(杵の一種なり)をふりて出る 客別の間に入りて寝るなり」とあります。すなわち、給仕人が杵を振って出て、客は知らぬ顔をする、給仕人が杵を振って出て、客は席を立って、別室に入って休む、という流れです。これだけではどのような意義を持つ行事なのか不明ですが、『防長風土注進案』に「郡廳評、杵もしくハナンジヤのてふをふり出るは酒を強ゆるの事にそあらん、日光食責鬼面赤熊を被り手に楉しもとを持ちいかめしき體相をなし、しかしかの言葉ありて、食へ食へしと罵りつゝそのもとをあらゝかにつくこと二度なるに似たるもおかし」(防長風土注進案:34)とあるように、日光の強飯式のように給仕人が客に食を盛んに強いる行事であったようです。このように、朝から晩まで食事をさせられるために、途中で横になって休む必要もありました。防府市観光協会発行の『笑い講』資料には「この神事は、杵を担いで一座の中を三回回り、杵に触れた人は「当たった、当たった」と言って悦び、最後に杵を枕にして二人の講員(男)は男女の営みを神前で行い、子孫繁栄・五穀豊穣を祈念する秘事である」とあることから、飯強いとは異なる祭儀意図もありました。

(3)おためし

「おためし」という豊凶を占う儀式も昭和の後半まで行われていました。前年の祭日前に玄米五升を一升に精米して藁包みに入れ、頭屋の床の上に掛け、間外に注連縄を張っておいたものを大歳祭りの当日に箱のふたに出して皆で検分する行事です。
『山口名勝旧蹟図誌』には、「十二月一日、當屋に二十一家の『名主』が集まりもてなしがはじまる『おためし』といわれる豊凶を占う行事」と説明がされています。『防長風土注進案』には、「祭日の前に黒米五升を壹升に精け藁苞に納れ當屋の床のうへに懸く、間の外に注連を引絚す 饗膳終わりて去年藁苞に納たる精米を箱の蓋に出し、其米を閲して来年の豊凶を占ふ事あり、精米白くして潔けれハ来年の百穀豊熟なり、或ハ黒くあるひハ黄にして潔きよからされハ凶荒なり、是を以て預め其備をなすなり」と記されています。

(4)笑い神事(笑い講)

笑いの神事はかつては夕刻に行われていましたが、現在は13時頃からおこなわれています。まず、神主が「笑いの神事」を宣言します。かつてはここで祝詞をあげていました。神主が太鼓を連続して叩き始めます。神前に供えてある大榊2本が、上座と下座に対座する講員に渡され、受け取った講員2人は大声で「ウワーハッハッハ」と3度笑います。バトンのように左隣に榊を渡してゆき、順繰りに2組ずつ笑ってゆきます。笑い方が不真面目であったり声が小さいと、講の長老が金タライを鳴らし、やり直しとなります。講員が全員笑ったら、給仕が4人同時に笑い、最後に全員で笑って笑い講はしめられます。



笑い神事

上:笑う講員と長老、下: 給仕の笑い

(5)お取り穂・尻からげ

笑いの神事が終って神主は太鼓をやめ、各自もとの座につき「御取穂」という行事をします。これは、神棚の左右にかけた稲穂を給仕人が取り、それを客にとらせるというごく簡単な行事です。渡された稲穂は、講員が年神の分霊として持ち帰り、各家庭で祀られることになります。
次に、「尻からげ」と称して、客の出で立ちに酒を強います。客は、これを飲んで家路につき来頭の者だけ残ります。2008年には見られませんでしたが、札埜和男の報告によると、「尻からげ」はごく最近も行われていました(札埜 和男,2006,「「笑い講」報告」『笑い学研究』13: 105-107.)。

(6)頭渡し

札埜(2006)によれば、頭渡しは現在、次のような次第で行われます。まず、今年の頭屋のうち二人と来年の頭屋のうち二人と宮司の五人が神棚の前に座り、宮司・今年の頭屋・来年の頭屋の順に盃を回します。次に、御室を今年の頭屋から来年の頭屋へ渡します。現在、頭渡しの後、御室は来頭が一人で持ち帰って、来年の頭屋は一年間、年神を自宅の神棚に上げて祀ることになります。なお、頭屋祭りに共通することですが、来頭に不幸があった場合、祭儀に先だって予め頭渡しの議式を済ませておくということもします。
かつての頭渡しはやや手順が異なりました。『防長風土注進案』によると、まず、羹・酒を用意し、神主三献の上、「目出度く相済」といって頭屋に盃を渡します。頭屋がこれを飲んで、「大歳様をお渡し申す」といって来頭(来年の頭屋)に盃を渡します。来頭はこれをうけて「大歳様を受けとり申す」といいながら、神主に盃を渡し、神主はこれを飲んで納めます。神主は前日迎えた神幣と頭屋の床の上にかけた藁米を来頭に授けます。来頭はこれをうけとって帰り、上の間の床の上に掛け、しめ縄を張ります。

(7)神あげ

頭渡しの後は、かつては「神あげ」または「頭屋移し」が行われていました。「神あげ」の手順は、まず、神主が頭屋と来頭とともに社頭に参向し、神主が頭屋の家で調じた幣を社殿に持ち帰って納めます。これが来年の神迎えの時に使用される神幣となります。それから、神酒・洗米を奉り、祝詞を奏するというものです。かつては、神あげの代わりに「頭屋移し」が行われていたこともあります。「頭屋移し」とは「頭渡し」の後、ご神体の祀られている御室を抱え、全講員で行列をくんで来頭の家に行き、そこで神主が神を送る神事を行い、来頭の家で談笑・酒宴をするという行事です。

昔の「笑い講」

旧来は笑い講の形式は大幅に異なっていました。『防長風土注進案』には下記のように記されています。

まつ貞頼名壹人出て、棚なる四もとの榊を左右の手と手にとりて棚の正面に向ひサア笑ひマシャウといひて、ハゝハゝハと笑ひ、其榊を貳もとづゝ次の座の左右に置く
次に百文名一人護郎丸一人出て貞頼名の左右横向に着き、前なる榊二もとづゝ両手にとりて、サア笑ひマシャウといひて、ハゝハゝハと笑ひ、其榊を次の座の左右に置く
次徳滋名一人徳重名一人徳永名一人末永名一人出て百文名護郎丸の次に座し、前なる榊一もとづゝ諸手に取りて、サア笑ひマシャウといひて、ハゝハゝハと笑ひなから立て、ハゝハゝハと笑ふ
『防長風土注進案』



昔の笑い講

上:『続防府市史』見返し部、江村隆雄「小俣笑い講図」 下:『山口名勝旧蹟図誌』「次篇巻第一」見開きページ

※上の画像について出典の記載ミスがありました。申し訳ありません。訂正いたしました。 上下の画像の詳細についてはNHK小幡様から情報の提供をいただきました。ありがとうございました。(2023.05.24加筆修正) 

上記の『防長風土注進案』の続きには、「笑ひやう實の笑ひなきときは次に出るもの改め笑ひ給へといふ、かゝるときハ幾度も笑ひ替へて實の笑ひになるまで笑ふ事なり」とあり、笑い声が小さかったり、不真面目な時は、次の笑い順の人間によってやり直しを要求されたということが記述されています。戦後の記述では、講の長老によって何度もやり直しをさせられるということが記されています。また札埜の報告によると、少なくとも昭和三十年くらいからはアルミの洗面器とバチを用いて判定の合図をおくるようになりました。その際に、笑いが良ければ連打し、笑いが悪ければ一回だけ叩いて不合格の合図をおくります。『続防府市史』の笑い講の解説には「この時、何かおかしい事があって、本当に笑ったのではだめ」という旨が記されています。これが意味するところは、笑い講における笑い講が「神人合一」をめざす笑いであることが考えらえます。

まとめ――「笑い講」の見どころ

いかがだったでしょうか。相当マニアックになってしまいましたが、笑い講を楽しむヒントがたくさん見つけられることと思います。笑い講の見どころは、ずばり、講員の笑いと酒です。笑い講では神人合一をめざす笑いを800年以上前から行ってきました。また、笑い講では、ことあるごとに講員はお酒を飲むことから、お酒の存在も見逃すことはできません。 当初は勧請の喜びで笑った祭りですが、現在では講員はなぜ笑うのでしょうか。こんなことに思いを巡らせながら神事をみると新しい発見があるかもしれません。

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