笑いの謎に本気で取り組んだ人のはなし
8月19日はある人物の命日です。社会学者であるその人物は、笑いを科学のテーマとして取り上げ、人が笑う仕組みをモデル化し、笑いを測定する装置の開発をしました。ほかならぬ筆者の恩師でもあります。今回はその人物――木村洋二先生の話を筆者の視点から紹介します。
笑いの研究を大学で
2008年、とある大学の教授が笑いを測定する装置を開発している、という記事が新聞に掲載されました。笑いを理論的に考えたいと思っていた筆者は、その研究室の扉を叩くことにしました。研究室で待っていたのは、ひげモジャで彫が深く眼光が鋭いTHE・博士。木村洋二先生でした。木村先生はもともと、京都大学の吉田民人先生のもとで機能主義の理論社会学を研究していました。大学院卒業後、喫茶店でアルバイトをするなど苦労する時期などもあったようですが、「関西大学に拾ってもらい」(本人談)、関西大学社会学部で教鞭をとるようになりました。大学ではコミュニケーション研究のなかでも、人と人とのコミュニケーションを脳の神経細胞であるニューロンの働きに見立ててモデル化し分析するソシオン理論の研究を主軸にしていました。笑いの理論的研究でも知られ、『思想』(岩波書店)に掲載された「笑いのメカニズム ―笑いの統一理論をめざして」やそれを洗練させた『笑いの社会学』(世界思想社)を代表として研究を発表しています。笑い研究の動機は、「ワライタケ」を鍋の具材にして仲間と食べて3時間笑いが止まらなくなったことからです。大笑いすると人は笑いに支配され思考が困難になります。抱えている精神的な負荷がゼロになることから、「笑いはゼロに相当する精神の演算子」という悟りを得たといいます。また、笑いながらこの世は意味はないけれどとにかく愉快であるということを感じたとよく話をされていました。

木村洋二先生
木村流笑いの統一理論
木村先生の笑いの理論は、種々考案された人が笑うメカニズムを統一的に理論化することを目指したものです。やや複雑であるため詳細は別の機会に譲りますが、この理論では笑いを(1)ズレて(2)ハズレて(3)ヌケて(4)アフレるという4つの段階を経るものと説明します。いわく、笑いとは、脳の回路において予期との不一致(ズレ)に対処するために確保されたエネルギーが新たな図式の獲得等により不要になった際に余剰となり、エネルギーの備給先が変更される(ハズレ)と同時に、脳でイメージされていた現象学的リアリティが消失し(ヌケ)、脳から快楽物質等を放出させ身体運動を引き起こす(アフレ)ものである、と。笑いは(一見)矛盾する事象が認知されたとき思考を一度リセットする機能を有し、論理的思考をすすめるための安全弁ともいえます。木村先生は笑いのこうした性質をよく自動車のニュートラルギアにたとえらえていました。
なお、この統一理論は発案当初は3段階のステップでしたが、日々理論が更新されることで4段階になりました。木村先生の理論の更新方法は梅棹忠夫氏のこざね法に似ています。京大式カードと製図用の水性青色のペンを使って、アイデアを書き留めていき、それを整理したり組み合わせたりして理論を構築していくのです。アイデアはいつ出てくるかわからないので、研究道具はいつなんどきでも肌身離さず持ち、大事な会議中であろうとテレビ番組の収録中であろうと研究に勤しんでおられました。京都亀岡の湯谷ヶ岳のご自宅には大量の分類されたカードとそれを組み合わせる作業場が設けられていました。

木村洋二先生の個人研究室(関西大学社会学部)。
横隔膜式笑い測定機の夜明け
笑いの発生メカニズム論を日々更新する木村先生は、特におかしみによる笑い(心からおかしいと感じたときの笑い)は、身体のなかでも最初に横隔膜の運動として表れると考えました(詳しい理由は聞きそびれてしまいましたが、横隔膜は肺呼吸の効率化のために哺乳類が発達させた器官であり、呼吸運動である笑いの主動部と考えうるからだと筆者は解釈しています)。木村先生がこの仮説を実証すべく横隔膜の動きをとらえる方法を思案していたところ、大学の研究仲間でもある雨宮俊彦先生(心理学)が偶然持参していた筋電計のカタログが目に飛び込んできました。30年前には高額すぎてあきらめた筋電計の価格を見ると、研究費で十分購入できるほどに安くなっていました。
筋電計は購入できることが分かった一方で、それを使ってどこを測れば横隔膜の動きを効率的に測ることができるのかという別の問題がありました。横隔膜は身体の内側に位置する筋肉であるためその動きの測定には、針電極やワイヤー電極などの侵襲的電極の使用が自然です。しかし、実験のしやすさを考慮すると非侵襲的な皮膚の表面電位を測る方式のほうが望ましいのです。思案していると、大学のゼミの卒業生の鍼灸師から横隔膜はみぞおちに位置する軟骨、剣状突起で骨とつながっているからそこを測ればいいのではないかという助言を得ます。こうして剣状突起周辺の皮膚表面電位を計測することから笑い発生時の横隔膜のダイナミックな動きをとらえる横隔膜式笑い測定機(diaphragmatic laughter measuring system : DLMS)の開発が始まったのです。

呼吸器系模式図。横隔膜(Diaphragm)は呼吸の際に上下に動く。
横隔膜式笑い測定機の発展と課題
横隔膜式笑い測定機の構築のため、筋電図にあらわれる強力な心拍に由来する成分の排除が必要です。そこで周波数変換により心拍成分が混入しにくく笑いに由来する成分が検出されやすい周波数帯域を調べることにしました。この帯域のパワーを用いることで笑いの量(単位:aH「アッハ」)を算出するというのが初期の横隔膜式測定機のアイデアです。ちなみに、aHは木村先生が笑いの単位について思いを巡らしながら一晩明かした朝、フッと頭に浮かんだ名称でした。pHのように一番目のアルファベットを小文字、二番目を大文字にするのがポイントだそうです。その後、横隔膜式笑い測定機には各種ノイズ除去機能、複数人計測機能(信号の正規化と表示機能)、イラスト連動表示機能などの機能が1年ほどの間に追加され、「本当に心からおかしいときの笑いが計測できる笑い測定装置」としてテレビ番組をはじめ国内外の各種メディアにも伝わることになります。横隔膜式笑い測定機の開発から世間での認知までは、偶然に偶然が重なったようにみえますが、木村先生はそう思っていませんでした。奇跡にも思えるサッカーのゴールが決して偶然ではないように、全力で走っていればいずれパスがつながりゴールを生み出すとおっしゃっていました。
横隔膜式笑い測定機には課題がありました。測定精度をはじめとして、計測時筋電計のケーブルが届く1.5メートルの範囲までに被測定者が集まる必要があること、湿式の電極を被測定者の胸部に貼付することから計測時の手間がかかること、手軽さという点では筋電計の重量や大きさ、一台数十万円という価格もネックでした。測定精度はその後の計測アルゴリズムの見直しにより改善することができました。その他の機器に由来する問題は、のちのちに木村先生の遺志を引き継いで筆者を含む研究室内のメンバーが設立したNPO法人プロジェクトaHやラフグラム・リサーチ株式会社において、筋電計を使用しない笑い測定装置の開発に着手することで解消しました。WARAI+でもこれらの知見を受け継ぎながら日々装置やソフトウェアの改良をしつづけています。

横隔膜式笑い測定機。初期のモデル。
笑いは「どこでもドア」
生物の細胞が個々独立した活動をしながら総体で一つの意思を持つように、人は個々独立した活動をしながら、社会や人類という超個体的つながりの上に存在しています。誰かと一緒に笑ったとき、人は相互に「つながった」感覚を覚えます。笑いは人と人とをつなげる媒体であり、ドラえもんの「どこでもドア」のように一瞬にして誰かのもとへワープする装置でもあるのです。真面目一本やりで笑いがなくなると、個と個のつながりであるネットワーク上で発生したズレの解消をすることができなくなり、システム全体の破たんをきたします。ネットワークを維持するための方法として、ズレを許容して認める愛と強制的にズレを排除する暴力とがあります。こうした社会における結合と排斥の力学をふまえて書かれる予定だった『暴力論――愛と暴力のネットワーク』(仮題)を病室で執筆しながら、2009年の8月19日に恩師は息を引き取りました。
【WARAI+からのお知らせ】
- iOS版WARAI+Recorderリリースしました。
アップデート内容はWARAI+Recorder iOS版リリース!をご覧ください。 - 人工知能専門の情報メディアAINOW(アイノウ)に掲載されました。ぜひご覧ください。
「昨日どれくらい笑いましたか?」 iOS版もリリース。AIで笑いを可視化するWARAI+を取材しました。