《シリーズ笑い祭り》10月8日は笑い祭へ行こう!

日本には、笑うことを神事や祭りの主に据えた「笑い祭り」が数多くあります。 そんな「笑い祭り」を一つ一つ掘り下げて紹介する《シリーズ笑い祭り》。第一回目は和歌山県日高川町の「笑い祭」です。

神事・祭りデータ

場  所:和歌山県日高郡日高川町江川1956 丹生神社
アクセス:JR紀勢本線和佐駅下車、タクシーで約10分
開催時期:毎年「体育の日」直前の日曜日 2017年は10月8日(日) 9時頃~
地  図:下記参照(御旅所)

「笑い祭」はこんな祭り

「笑い祭」はかつては10月10日に行われていましたが、現在は毎年「体育の日」直前の日曜日という秋祭りの時期に行われます。和佐地区から選ばれた笑い男十二名が福枡に野山の幸を串に刺し、笑い男たちが先導の合図でどっと笑いながら、また周囲の参拝者を笑わせながら渡御をするという祭りです。供物を持って神社に行くいわゆる片渡御の神事です。十二個の福枡は一年を表現しています。
「笑い祭」は一般には奇祭と言われます。しかし豊穣の喜びを笑いという形で象徴的に表現するだけで、よくある秋祭りとも考えられます。この祭りが奇祭とされる大きな要因は、「鈴振り」という派手な恰好をした神輿の先導役がいることでしょう。鈴振りは高年齢の男性1名が務め、赤い頭巾、赤、黄、水色のド派手な服に身を包み、顔中白塗りのメイクに頬には赤く「笑」の文字、顎には鳥居が描かれています。 片手に鈴を持ち振りながら、また小脇の箱から飴を取り出して撒きながら、「世は楽じゃ、永楽じゃ、笑え、笑え、ワッハッハ」と周囲の人々に笑いを促します。視覚、聴覚、食べ物に訴えかける、目立つためのあらゆる方法を具現化したような存在なのです。 御旅所から丹生神社まで、周りの人も氏子たちも鈴振りの掛け声にあわせてワハハと笑いながら、神輿行列は移動していきます。


鈴振り(著者撮影)

鈴振りは顔全体にビンツケを塗る。食紅で眉毛を太く、頬に「笑」の文字を、ほくろを書き加え、口の下に鳥居をかく。目の周りと鉢巻は墨で墨く塗る。頬紅頬とまぶたに、口紅を塗り化粧は完成する。衣装は、赤・黄・青・緑など原色を基調とした派手なものを着用する。被り物に赤頭巾、下衣に赤袴、右手に鈴、左手には手箱を持つ。中は飴など菓子が入っており、道中に参拝客にふるまう。ひょうたんをぶら下げている。


枡持ち(著者撮影)

枡持ちは神輿の渡御の際に鈴振りに従う。枡持ちは全部で十二人おり、ひとり一つずつ一升枡を持ち手に捧げ持つ。鈴振りの音頭に従って随時笑う。一升枡には、新藁をつめ、その中に竹串を建て、今秋採れた果物や野菜類を十セットほど刺してある。また、幣を挟んだ竹串に今秋実った稲穂を一本、水引でくくった物を枡の中心に刺す。基本的に十二人、十二升で祭祀は行われるが、閏年には一斗枡を一つ余計に作るため、十三人、十三升で奉仕することになる。

丹生神社とは

現在の丹生神社周辺の土地では、かつて丹生津姫命を祖神と仰ぐ丹生氏によって水銀の発掘や土地の開拓がされました。このことを恩に感じた村人によって、各地区に丹生津姫命を祀る小社が多く建てられました(笑い祭保存会 1994)。明治41年にこれらの社祠が合祀され、江川八幡宮は現在の「丹生神社」という名称になりました。丹生神社の主祭神は誉田別命(八幡神)ですが、天照大日孁命・丹生津姫命・天児屋根命・里大神など計20柱がまつられているのはこの合祀によるものです。

「笑い祭」の流れ

笑い祭は四地区の合同祭の一部です。和佐明神社の「笑い祭」、江川八幡社の「奴踊」、山野真妻大明神の「雀躍」、松瀬里神社の「竹馬祭」がいっぺんに行われるので、朝から晩までの長丁場・同時多発的な行事内容となっています。ここでは、笑い祭だけの流れを紹介します。

宵宮(前日)

「当屋の出立ち」「本宮の御旅所参り」「地下回り」「雄鬼と雌鬼の対面」「雄鬼と踊り獅子との舞」「舞獅子」「四ツ太鼓」などが行われます。

本祭(当日)

  1. 「出発の儀式」
    本祭は神酒で清めて始まります。雄鬼が拝礼の後に踊り獅子をし、舞獅子の後に、移動をします。雄鬼、額、傘鉾、踊獅子、大小幟、雌鬼、屋台と続きます。「雄鬼と踊り獅子との舞」とは、暴れ獅子が神に襲い掛かったときに、猿田彦の化身である雄鬼が退治した戦いの様子をかたどっています。「舞獅子」とは退治された獅子の弟子が改心して、お詫びのために舞う様子を表現します。

  2. 「江川での出迎え」 9時ごろ 御旅所(おたびしょ)付近
    丹生神社の地元の江川雌雄の鬼が各地区からの来訪を出会いの儀式で迎えます。双方の鬼が出会いの儀式を繰り広げ、江川の鬼の先導によって御旅所まですすみます。

  3. 「御旅所神事」 10時40分ごろ 御旅所
    御旅所では、神輿の前で御払い、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠を経て、巫女の舞と踊り獅子の舞が奉納され、最後に各地区の舞獅子が同時に舞います。

  4. 「還御」 11時ごろ
    丹生神社まで還御します。これより、笑い祭の笑い神事がはじまります。列順は、神官、鈴振り、枡持ち、神輿です。鈴振りが「エエ楽じゃ、世は楽じゃ笑え笑えワッハッハー」と鈴を振りながら神輿を先導します。鈴振りの合図に枡持ちたちも「ワッハッハー」と合わせ、同時に枡を頭上に捧げます。道中、これを三回ずつ繰り返し、見物人を笑わせていきます。鈴振りは手持ちの箱から、飴などを参加者に振りまきながら笑いの渦は進んでいきます。この列の間や後ろには、額、傘鉾、踊獅子、幟、屋台、四ツ太鼓などが入ります。途中、神輿は清めの為に川をくぐり、祭員は随所でお酒を飲みながら周囲を笑わせ、一同は丹生神社を目指します。

  5. 「宮入り」
    鈴振りが宮入りを果たしたら、そこで参拝客と一緒に宮前で「笑え笑えワッハッハー」と笑いを促し皆で笑います。その後、宮の前で四つ太鼓、巫女の舞、和佐の踊り獅子、松瀬の竹馬、江川の踊奴、山野の雀踊りなど各演目が行われ、最後に各地区の獅子舞が一斉に舞って終わります。

  6. 「地下戻り」
    祭礼が終わってから、祭具等と共に当屋へ戻ります。ここでも踊り獅子、舞獅子が披露されます。

昔の「笑い祭」

笑い祭は江戸時代から存在したことが文献から確認できます。

丹生大明神社
上和佐村にあり 上下和佐の産土神なり 例祭十月初卯ノ日は 村老柿 蜜柑等の菓を一菓づつ 竹串数十本に貫き 一斗入の升の内におし並べ 真中に幣を建てたるを捧げ 其次一升入の升に 同じさまにさしならべたるをさゝげもたるもの數人つらなり 其後には童子等長き竹串の末を割きて木菓をさし列ね 中に幣をたてたるを高く捧げて 各社前に至る時 村老発声して笑へわらへといふに應じて同音に笑ふ これによりて笑祭と名づくといふ その笑ふ由来は十月は諸神出雲国に到り給ふに 此神ひとり後れ給ひて えゆき給ハざりしを笑ひしより起れりといへり 神幸所は田他の傍 玉置氏の舊地にあり

出典:嘉永四年(1851)『紀伊国名所図会』後編巻之五


笑い祭

『紀伊国名所図会』後編巻之五 裏表紙

嘉永四年(1851)の『紀伊国名所図会』後編巻之五には、先頭に神官、裃に脇差の村老が升を高く掲げ、それに続いて升持ちの二人、続いて九人の童子が大笑いしながら列をなしている姿が描かれています。ただし、鈴振りの姿はなく、「笑え、笑え」の掛け声は村の長老がしていました。現在のように道化師のような姿をした「鈴振り」が登場したのは昭和初年頃、第二次大戦の後だといいます(川辺町史編さん委員会編 1991)。鈴振りの以前には「お先達」や「大黒」と呼ばれていました(『読売新聞』 1944.10.20朝刊)。他の祭りと同様、笑い祭も徐々に変容しているのです。長い竹串を捧げていた童子は現在ではみられません。ちなみに、近年、新たに新年にも笑い祭から派正した祭りが追加されました。

「笑い祭」と酒

祭礼に酒はつきものです。「本社の境内へ着くと馬場や神社前の広場では枡持も氏子も酒気を帯びており、一段と大きな声で笑う」(笑い祭保存会 1994:34)とあるように、酔いは笑いを促進する効果があります。笑い祭には本来鈴振りは存在しなかったことから、笑い祭はそもそも酒を飲んで笑う祭りであったということになります。農民にとって祭礼の日は豊作への感謝し祝福すると同時にその恩恵を享受する日でもあり、笑い祭でも例外なく酒は振舞われました。笑い祭保存会(1994)によると、宵宮(前日)から本祭が終わるまで、祭礼のあらゆる場面で逐一酒が振る舞われ、祭全体で清酒約一石(180リットル)が消費されたといいいます。特に鈴振りは宵宮から大量に飲酒し、本祭の道中でもお酒を飲みながら周囲に笑いを促す大変な役なのです。

なぜ笑うのか?「笑い祭」と神話

祭の起源を説明する神話的言い伝えは祭りの意義付けのために後付けであてがわれているものであり、当時の人のその祭りに対する考えが反映されているため面白い部分でもあります。
笑い祭は秋祭りであり、収穫の喜びと神への感謝を笑いという形で捧げるための祭りだと考えるのが自然ですが、複数存在する笑い祭の神話的言い伝えからは、笑い祭の笑いの意味の別の側面が見受けられます。以下にいくつか紹介します。

  • 説(1) : 寝坊をした神を慰め勇気づけるために村人が笑った。現在もっとも支配的な神話です。

    遠い遠い神代の昔、毎年神無月に出雲の国で八百万神様が会議を開いておられました。美しく成人された丹生都姫の命も、初めて出席する事になりましたが、出立の朝、寝坊をしてしまいました。初めて出席する大切な会議に遅れてしまったのですから、すっかりふさぎ込んで社の奥深く閉じ籠ってしまわれました。心配した村人達は、命の邪気祓いをしょうと、思い思いに野山の御幣帛ごへいはくを福枡に盛り、神前に御供えし「笑え笑え」と命を慰め勇気づけました。それによってすっかり笑顔をとり戻した命は出雲へ出立し、無事役目を果たして帰られました。それにより生活の中に「笑い」と言う事の大切さをさとられ、村人と共に「笑い祭」をとり行われるようになりました。
    (丹生神社パンフレット 2010)

  • 説(2) : 丹生津姫命の失敗に対する嘲笑。腰巻をひっかけたから笑った、出雲へ遅れていかなかったのを笑った、裸のままで出席したのを笑われたというバリエーションがあります。

    「寝坊をした神があわてて腰巻を引っかけたのを笑った」(『和歌山の研究』)。
    「忘れ物を思い出して引き返したとき、衣を引っかけた。それをみた氏子がおかしさをかみ殺しながら助けた」(和歌山県 1980:140)。
    「その笑ふ由来は十月は諸神出雲国に到り給ふに 此神ひとり後れ給ひて えゆき給ハざりしを笑ひしより起れりといへり」(『紀伊国名所図会』)。
    「裸のままで行ったので先着の神々に笑われた」(和歌山県 1980:141)。

  • 説(3) : 丹生津姫命の失敗の動揺を隠す笑顔。

    「恥ずかしさを隠し、笑顔を振りまいて出立。帰ってきてから笑いの大切さを説く。」(笑い祭保存会1994:45)。

  • 説(4) : 丹生津姫命に対する八百万の神々の拍手喝采を模倣。説(2)の最後と類似しますが、ここでは裸で駆け付けた勢いを賞賛しています。

    紀州日高郡和佐の笑い祭りも名高きものなり。昔出雲大社へ諸神馳せ駆け付けしとき、この社の女神あまりに急き飛び行かんとして、湯巻を社畔の銀杏の梢に引っかけしが、この女神なかなかのしたたか者で一向かまわず、湯巻を打ち棄てて、そのまま赤裸々で飛び行きしという。それは猥褻などと言うかも知れぬが、予はかえってこの女神の大神に忠誠の志篤かりしを称賛する。とにかくあまりの勢いに呆れて手下の小神輩、手を拍って歓声雷のごとくなりしを真似て、この祭り起こりしという。(南方熊楠)

  • 説(5) : 「天岩戸開き」神話に由来。

    上記の神話は、丹生津姫命が出雲大社へ行くことが前提となっていますが、その話に対する疑問の声もあがっています。たとえば、「丹生津姫命は伊勢系の神様である。出雲系の集会に出席するのは大筋違いであり、識者は、到底、承服できがたい事である。」(小山豊 笑い祭保存会 1994:3)。「丹生都比売命は天照皇大神のお妹姫であり、笑いの発生は高天原の故事因んでいる。天津神である以上、国津神の出雲へ行く筈がない」。(井上豊太郎「丹生神社本記」笑い祭保存会 1994:5)。このことから天岩戸開き神話を笑い祭の由来に推す声があります。

  • 説(6) : 笑いによる邪気の駆除。

    神話以外では、「天岩戸と同様に女陰が露出しているということから、それ自体に邪気を駆除するちからもあるし、笑いを引き出すことによってさらに駆除の力を強める働きがあると考えられる」(樋口1982:110)という笑いによる邪気の駆除説があります。笑い祭保存会(1994)によれば、養蚕業が盛んな頃、火事や腸チフスの流行で神をいさめるために祭りを再開した歴史があります。天照大神の妹神である丹生津姫命は、水銀の神、農耕の神、魔除けの神として知られており、笑いによる邪気の駆除という説も興味深い説です。

まとめ 「笑い祭」の見どころ

いかがだったでしょうか。今回はほかではあまり掲載されていない情報も盛り込んだため少々マニアックになってしまいましたが、少し奥深い「笑い祭」を知るきっかけになったのであれば幸いです。笑い祭の見どころは、鈴振り、枡持ち、お酒です。祭りの基本、人々が想定する神の位置にも注目してみてください。人々と神との関係が感じられるはずです。笑い祭の後にも内容が盛りだくさんの祭りが続きます。ぜひ一度参加してみてはいかがでしょうか。2017年は10月8日(日)に開催されます。

参考:

  • 安藤精一編、1978、『和歌山の研究 方言・民俗篇』清文堂出版。
  • 樋口清之、1982、「笑いと日本人」『日本人の歴史 第9巻』講談社。
  • 川辺町史編さん委員会編、1991、『川辺町史 第二巻 通史』川辺町。
  • 『紀伊国名所図会 後編 巻之五 日高郡』
  • 南方熊楠、「山神オコゼ魚を好むと云う事」
  • みうらじゅん、2000、 『とんまつりJAPAN』 集英社。
  • 丹生神社、2010、『丹生神社パンフレット』
  • 笑い祭保存会、1994、『笑い祭』ぎょうせい。

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