笑い学入門9「上方落語の笑い~哀しみとの向き合い方」

笑い学入門第九回目 上方落語の笑い!

現在関西大学人間健康学部で開催されている「笑い学入門講座」の内容を要約してご紹介します。この講座は関西大学と堺市との連携事業であり、一般の方向けに無料で開講されています。
本講座は『笑いを科学する』(新曜社)をテキストとして笑い学を学ぶ講座となっており、基本的に執筆者の先生が登壇されます。今回は関西大学教授の雨宮俊彦先生が登壇される予定でしたが、予定が変更となり演芸ジャーナリストのやまだりよこ先生の登壇となりました。講演タイトルは「上方落語の笑い~哀しみとの向き合い方」です。やまだりよこ先生は、日本経済新聞や夕刊フジ、雑誌「上方芸能」などで演芸評論などの記事を執筆されています。また、国立文楽劇場短期専門委員や「週刊落maga」編集発行人として活躍されています。今回は、哀しみとの向き合い方という観点で上方落語の笑いの特徴を考えます。
なお、当記事の内容は、講座の内容を筆者の視点から解釈し短くしたものであり、講師の方の見解と必ずしも同一のものにはなっていないことがあります。ご了承ください。


上方落語の笑いの特徴

落語には東京の落語と上方落語の2種類があります。上方落語には「はめもの」というお囃子が入る話が多いことや、見台や膝かくしを使用するという様式の違いがあります。最も異なるのは言葉です。大阪弁とべらんめえ口調の江戸弁や標準語では、聞き手からすると落語のニュアンスが異なって聞こえます。さらには、東京の落語と上方落語では噺の種類が違います。東京の落語では、「人情噺ができて一人前」とされるように、大ネタに人情噺が多い一方で、上方落語では、人情噺は少ないのです。怪談噺も少ないです。この違いは、300年前の同時期に、座敷ではじまった江戸落語と辻噺・大道芸からはじまった上方落語というそれぞれの落語の出自に起因します。上方落語は、人々を楽しませることを基調として受け継がれ、発展してきたのです。
上方落語のまくらでは、「するめ」を「あたりめ」と言ったり、「おから」を「きらず」と言うなど、ゲン担ぎをします。口に出す言葉の力を信じてよいように言うという、言霊的言語感覚がありました。落語「壺算」では、こんな台詞があります。水壺が割れてしまって、夫が「割れてしもたがな」嘆くのですが、おかみさんは「ゲンの悪いこといいなはんな、割れたんと違う、増えたといいなはれ」とたしなめます。よくないことでもよいように捉え、言葉にしてきたのです。上方落語では、マイナスの事柄でもプラスに転化したり、哀しいことを笑いに転化したりする傾向があります。人間万事塞翁が馬や禍福はあざなえる縄のごとしということわざがあるように、悲劇と喜劇は表裏一体の関係にあります。哀しい出来事であったとしても、ときに見方を変えれば途端に楽しい出来事になるのです。
落語には「人の人生の失敗がすべて入っている」と言われます。落語は僧侶の法談をルーツにしているといわれるように、日常的なさまざまな「苦」がちりばめられています。人の死や別れを扱った作品も少なくありません。人は浮き沈みを感じるからこそ幸福を感じられるのかもしれません。
今日は落語を通して人々がさまざまな哀しみをどう捉え、どう笑いにしてきたのかを考えていきます。

「貧しさ」で笑う

落語の笑いの題材として多く取り上げられるのが、生活苦すなわち「貧しさ」です。古典落語は江戸末期から明治にかけて作られましたが、その時代、庶民は裕福ではありませんでした。「貧乏花見」という落語はそうした庶民の暮らしを題材とした代表的な噺です。この噺は、大正時代ごろに東京に移されて「長屋の花見」となりました。東京に移された際に異なる部分が出てきました。この部分が上方落語の本質と考えることができます。東京の「長屋の花見」のほうは、大家さんが長屋の連中を花見に誘い、酒肴も大家が用意します。一方で、上方の「貧乏花見」では貧乏な連中のみで励ましあって、持ち寄った洒落のきいた酒肴(お酒は番茶を代用するなど)で花見をします。裕福そうな人に対して「いい夢を見てはる」という捉え方をして、ねたまないのが特徴です。また、上方落語は貧乏の描写が極端で、東京に移された落語にはそれがありません。たとえば、裸に墨を塗って服に見せかけたり、夫婦で着物が一着しかないので、お嫁さんは襦袢の下に風呂敷を腰に巻いて出かけたりします。さらには、長屋の子供が手習いをした真っ黒の草紙を貼り合わせて黒紋付きに見せかけたりもします。
東西の落語を比べると、上方落語のほうが赤貧ぶりをこれでもかと描写しながら、それでも笑うしかないという理由でしゃれたり遊んだりしています。そうした楽天的なたくましさが笑いにつながっているのです。かといって、自分たちを貶めるみじめさはありません。上方落語では、赤裸々な人の姿を実感を伴ったかたちで描写することで、共感をよんで笑わせようとするのです。
大阪の言葉の語感自体に、おかしみやユーモアが含まれています。「あきれてものが言えない」と「ホンマによう言わんわ」とでは、同じ意味ですがニュアンスが異なっています。言い切らない余白を作ることで伝わる「体温」があるのです。ほかにも、「疲れた」よりも「しんどい」ということで、より実感をともなって伝わります。大阪の言葉が大阪の人と気質を育て、ひいては、上方落語を育てたといってもよいかもしれません。
「尻餅」という落語は、大阪らしさを具現化しています。貧しい長屋住まいの夫婦のストーリーで、おかみさんが年の瀬に正月のお餅をつけないほどの貧乏暮らしで世間への体裁も悪いことを嘆いたことから、旦那がそれならお餅をつく音だけさせようと思い立ちます。旦那が一人で何役も演じながら餅つきの下準備を演じ、しまいには、おかみさんのお尻を叩いて餅つきの音を出すという噺です。貧しさを跳ね返してたくましく生きる暮らしぶりに、現代の人々はある種のあこがれまで抱くのです。
貧しさをテーマにした作品はほかにも、「打飼盗人」「貧乏神」「一文笛」など多数あります。

「死」で笑う

昔の日本人にとって、人の死は身近な出来事でした。落語「お文さん」の冒頭には蓮如上人の「御文章」がよく引用されます。「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず」「されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」。人の死は当たり前で誰の心にも無常感がありました。
屍がそこらへんにあるということが普通でした。落語ではそれを笑いにつなげてゆくのです。落語「らくだ」では、紙屑屋が男の死体を見て「人間、何なと、死にようも、あるもんでんな。」とのんきに言います。落語「骨つり」では、拾ったしゃれこうべが美人のものだとわかるシーンがあって、「人間綺麗とか汚いとかいうけれども、皮一枚の仕業やな」「でも、皮にも良し悪しがあるわな」という達観したセリフも出てきます。
人の死が登場する落語は数多くあります。「立ち切れ線香」では、芸者の小糸と恋仲になった若旦那が、番頭に諌められて100日の蔵住まいの身になります。やっと若旦那が小糸に会いに行ったら、小糸は待つことに失望して死んでいました。最後に、若旦那が酒を口にしながら「生涯女房と名のつくものは持たんでええ」と涙にくれるなか、小糸の亡霊が弾く三味線の音はぷつっと止まります。なぜかというと、線香が立ち切れたためです。当時、芸者への支払いは線香が燃える時間で計算していて、線香が消えると商売は終了したのです。それはそれ、これはこれという皮肉な笑いです。
人の死を扱った落語として有名なのは「地獄八景亡者戯」でしょう。この噺は閻魔大王に裁きを受けて最終的に地獄行きになった連中が大暴れをするという荒唐無稽なファンタジーです。死後も愉快な世界があって第二の人生を送れるのかという気にさせる噺です。死の哀しさや恐怖をこのような視点で笑いにしたのは落語の本懐ではないでしょうか。
落語「くやみ」では、弔問の挨拶の難しさに触れ、結局は「何と申し上げてよろしいやら」にいきつくという笑いが含まれています。お葬式は人の隠れた側面が露わになる場でもあります。お葬式関連の新作では、笑福亭福笑の「葬儀屋さん」があります。高齢の父親が亡くなって、中年の子供3人が集まって遺産相続も含めて打算が見え見えの話し合いをするという序盤に始まり、最後には長男がうろ覚えの定型句で挨拶をして笑いを誘います。悲劇と喜劇が表裏一体となった落語らしい傑作となっています。
最後に、動物の死を扱った噺を紹介します。「天王寺詣り」は、かわいがっていた犬の供養のために四天王寺へ行き、死者を成仏させるという「引導鐘」を聞くという男の噺です。はなかい命を思うやさしさが根底に流れている落語です。仔たぬきが出てくる「まめだ」という落語もあります。膏薬屋の息子がまめだ(豆狸)のいたずらを懲らしめてやろうと宙返りをしたところ、まめだが強く体を痛めてしまいました。それからというもの、色黒の陰気な丁稚が膏薬を買いに来るようになりました。膏薬を販売したときの勘定が合わず、お金に落ち葉がまじっている日々が続きます。ある日を境にその丁稚は来なくなり、勘定が合うようになりました。しばらくして、膏薬の容器ごと体に張り付けて死んでいるまめだが発見されます。実は、まめだは巧妙に丁稚の姿に化けて、銀杏の葉をお金に変えて膏薬を買いに来るようになっていたのです。かわいそうに思った膏薬屋の息子がまめだの葬儀を取り計らいました。坊さんが読経を始めると突然、秋風がサーッと吹いて銀杏の落ち葉がまめだの亡骸を覆いました。膏薬屋の息子がつぶやきます。「お母ん見てみ。タヌキの仲間からぎょうさん、香典が届いたがな」。心にしみるような詩情がある噺です。

まとめ

以上、落語が哀しみとどう向かってきたのかを見てきました。落語には地位や名誉を望まないごく普通の善良な人が出てきて分相応につつましく日常を生きています。その中で人々は、思い通りにならないこと、苦しいことや哀しいことを受け入れて、笑い飛ばし、あるいは、寄り添いながら、笑いで励ましあったり救われたりしています。哀しみはある意味、笑いの源でもあります。落語は幸も不幸も含めて人間賛歌で、生きるのはいいことだ、生きていてよかったと、ちょっと思わせてくれる芸能なのです。

笑い学入門講座のご案内

講座が扱う「笑い学」はその名の通り、笑いをテーマとして扱う学問です。
テーマが身近なぶん、難解すぎないので初めて研究、学問に触れる方でも安心して学べます。
講座では笑いに関する様々な専門家が登壇します。
毎回新しいトピックで面白いと思います。

次回の講座は12月16日(土)、 目白大学の野澤孝司先生による「笑いの脳科学最前線」です。

講座は事前申し込み制ですが、当日参加も可能です。
参加費:無料
テキスト:『笑いを科学する』(新曜社)会場販売あり
場所:関西大学堺キャンパス SB302教室
〒590-8515 堺市堺区香ヶ丘町1-11-1 南海高野線「浅香山駅」徒歩1分
スケジュールなど詳しくは下記ページをご参照ください(外部リンク)。
笑い学入門講座

その他のコラム

コラムをもっと見る