笑い学入門4「日本の近代文学と笑い」
笑い学入門第四回目 日本の近代文学と笑い
現在関西大学人間健康学部で開催されている「笑い学入門講座」の内容を要約してご紹介します。
この講座は関西大学と堺市との連携事業であり、一般の方向けに無料で開講しています。
また、本講座は『笑いを科学する』(新曜社)をテキストとして笑い学を学ぶ講座となっており、基本的に執筆者の先生が登壇されます。
今回のテーマは「日本の近代文学と笑い」。
本来であれば、執筆者の成蹊大学名誉教授の羽鳥徹哉先生にご登壇いただくのですが、
羽鳥先生は2011年にお亡くなりになったため、「笑い学入門講座」の第四回目は関西大学人間健康学部准教授の浦先生にご登壇いただくこととなりました。
浦先生のご専門は比較文学、民俗文化論です。今回は、羽鳥先生の執筆内容をベースに浦先生が解説と補足を行う形となっております。
なお、当記事の内容は、講座の内容を筆者の視点から解釈し短くしたものであり、講師の方の見解と必ずしも同一のものにはなっていないことがあります。 ご了承ください。

『笑いと創造』第五集(勉誠出版) 編集代表者は羽鳥徹哉先生
古代~近世 笑いと真面目の分離
羽鳥先生によると、日本の古代においては笑いと真面目は融合していました。 古事記、竹取物語、土佐日記、枕草子、源氏物語などでその様相は確認できます。
ターニング・ポイントは、1192年の鎌倉幕府の成立にともなう武家社会の到来です。 以降、笑いと真面目は徐々に分離していくことになります。 その一例は能と狂言の分離です。
近世でも幕府による取り締まりの影響もあり笑いと真面目の分離はされたままです。 たとえば真面目な読本(よみほん)では、幕府推奨の儒教道徳に満ちた山東京伝の「忠臣水滸伝」、滝沢馬琴の「南総里見発見伝」があります。 笑いが含まれる滑稽本では、庶民の滑稽な生態を描写した十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、式亭三馬の「浮世風呂」「浮世床」があります。

笑いと真面目の分離
明治期 真面目と笑いの分断から笑いの消失へ
明治期も真面目と笑いの分断は続きます。 中村正直「西国立志編」(明治3-4年)、福沢諭吉「学問のすすめ」(明治5-7年)、西周「百学連環」(明治20年)という西洋志向の思想書がある一方で、 娯楽的な仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」(明治3-9年)、「安愚楽鍋」(明治4-5年)も出版されました。 もっとも、こうした思想書と娯楽書とはきっちりと線引きがなされているわけではなく、矢野龍溪の「経国美談」(明治16-17年)、 成島柳北の「柳橋新誌二篇」(明治4年稿、7年刊)などの中間的な読み物も登場しました。
明治期では一時期、真面目と笑いの融合の可能性が見えた時期がありました。 坪内逍遥の「当世書生気質」(明治18-19年)は、真面目な恋物語と悪ふざけをする書生たちが描かれるなど、真面目と笑いとが融合する可能性をひめた作品でした。 しかしながら、周囲からの不真面目、卑猥、思想が乏しいという批判の声により、逍遥は深刻な作品作りに傾倒していくことになります。 同時期の明治20年代前半、二葉亭四迷、山田美沙、尾崎紅葉も笑いを捨てた深刻な作品作りで世に迎えられる形になります。 文壇から笑いが消えていくのです。

坪内逍遥(1859-1935)
明治期になぜ笑いが失われたか
浦先生の調査では、明治20年末からはじまる坪内逍遥と文芸評論家の高山樗牛の論争が見つかりました。 当時の作家は笑いの消失をどのように捉えていたのでしょうか。

高山樗牛(1871-1902)
逍遥「ユーモアは気分と質の問題だ」明治29年3月
樗牛「それは逍遙さんらしくない。ユーモアは理想の円満に通じる媒介である」明治29年4月
逍遥「そんなこといってるあんたがユーモアを実地に見せてるよ」明治29年4月
樗牛「ああ、文学に滑稽がない。戯曲にもない。日本人は笑い好きなのに。ああ。」明治29年6月
樗牛「古来日本人は笑うのに滑稽のない文学とは笑いを忘れたのか」明治29年7月
樗牛「滑稽作家は不振だ。まじめで苦虫をかみつぶした大先生じゃ無理だ。」明治30年9月
樗牛「年取った先生が努力しないんだから、できそこないの作ばかり。年取って筆も立つ先生がこの方面にも目を向けなさい。」明治30年10月
逍遥「滑稽がない、滑稽がないといって、実は個人攻撃をしている奴がいるから、滑稽作家がでないんだ」明治30年11月
ユーモアは「気分と質の問題」とする逍遥と文学に滑稽がないことを作家(おもに逍遥)のせいだと嘆く樗牛のやりとりです。雑誌に掲載されるかたちで論争が行われていました。
やり取りを経るにつれて、徐々に樗牛の矛先が変わっていきます。笑いが少ないのは作家ではなく国民のせいにだと主張するようになりました。
樗牛「今の国民は笑わない。笑えないようなことをいう奴は笑殺してやる」明治30年12月
逍遥「笑いは因果関係で起こるもの。この苦闘多き世界で経験の浅い若造が、この苦闘を笑倒する力なんぞない!!」明治31年1月
樗牛「文学に滑稽がないのは作家のせいではないです。国民に余裕がないからです。」明治31年2月
羽鳥先生は諸説ある中で明治期に笑いが失われたことについて、条約改正と国粋主義の台頭が主要因だと考えています。
当時、日本政府は外国人にも日本人と同等の土地所有の権利を条約で認めようとしていました。
日本が外国の植民地にされてしまうことを恐れた日本の人々は政府に反発する運動を起こしました。
日本は笑っている場合ではないという興奮状態にあったのです。
笑いの復活 夏目漱石「吾輩は猫である」
このような笑いの消失状況から、笑いの復活をもたらしたのが夏目漱石の「吾輩は猫である」(明治38年)です。 同作品は、至らない自己を笑う自嘲からはじまり、そうした自己反省も知らないずうずうしい人間に対して諷刺を展開するという骨格をしています。 この自嘲から諷刺へという流れは近代の笑い文学の基本的パターンとなりました。

夏目漱石(1867-1916)
ところで、本格的な笑い研究は明治20年に始まりました。 その成果は「吾輩は猫である」にも適用されました。 当時、「関係ない2つの事象の結びつきがひとまとまりの物としてとらえられてた時にユーモアは生じる」と考えられており(前回のコラムで紹介した不一致理論です)、 漱石はストーリーの中でいろいろな「結びつき」をためしていくのです。
なお、漱石は「坊つちやん」(明治39年)、「草枕」(同)、「三四郎」(明治41年)と笑いを含む作品を書いたのち、笑ってごまかさずにありのままを書くことをよしとする自然主義文学の台頭にともない、 作品には深刻さが増していくことになりますが、文学における自嘲的・諷刺的な笑いはその後の芥川龍之介「鼻」(大正5年)や「河童」(昭和2年)、宇野浩二「蔵の中」(大正8年)、「苦の世界」(大正9年)、 井伏鱒二の「山椒魚」(昭和4年)、「侘助」(昭和21年)、「遙拝隊長」(昭和25年)、「黒い雨」(昭和41年)など近代作家にも受け継がれていきました。
戦後、社会が落ち着きを取り戻すと北杜夫や遠藤周作などのゆったりとした笑いと特徴とする作家も登場します。 井上ひさしは「日本人のへそ」(昭和44年)以降に言葉遊びを取り入れつつ権力に対する批判的な文学を展開しました。 このような流れもと、いまでも笑いやユーモアは政治風刺、社会諷刺の道具として用いられているのです。
読んでみたい近代文学の古典的ユーモア作品
最期に、浦先生が紹介されたユーモア作品が堪能できる本を紹介します。
一読してみてはいかがでしょうか。
与謝野晶子『環の一年間』(和泉書院、絶版)
与謝野晶子『環の一年間』(与謝野晶子児童文学全集、春陽堂)
織田作之助『夫婦善哉』(新潮文庫、岩波文庫)
織田作之助『わが町・青春の逆説』(岩波文庫)
佐々木邦『苦心の学友』(講談社文芸文庫)
獅子文六『自由学校』『てんやわんや』『胡椒小僧』『青春怪談』『悦ちゃん』他(ちくま文庫)
坂口安吾『肝臓先生』(角川文庫)
井伏鱒二『山椒魚・遙拝隊長』(岩波文庫)
井伏鱒二『駅前旅館』(新潮文庫)
井伏鱒二『珍品堂主人』(中公文庫)
稲垣足穂『一千一秒物語』(新潮文庫)
尾崎翠『第七官界彷徨』(河出文庫)
尾崎翠『第七官界彷徨・瑠璃玉の耳輪』(岩波文庫)
笑い学入門講座のご案内
講座が扱う「笑い学」はその名の通り、笑いをテーマとして扱う学問です。
テーマが身近なぶん、難解すぎないので初めて研究、学問に触れる方でも安心して学べます。
講座では笑いに関する様々な専門家が登壇します。
毎回新しいトピックで面白いと思います。
講座は事前申し込み制ですが、当日参加も可能です。
参加費:無料
テキスト:『笑いを科学する』(新曜社)会場販売あり
場所:関西大学堺キャンパス SB302教室
〒590-8515 堺市堺区香ヶ丘町1-11-1 南海高野線「浅香山駅」徒歩1分
スケジュール等詳しくは下記ページをご参照ください(外部リンク)。
笑い学入門講座